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自分のしてしまった最低だと思う言動が影響して、望んでいなかった心境の変化を生んじゃった。問題は、心境が変化してしまったので望んでいた状態にするために働こうという気持ちになりにくい(かつて望んでいたことをかつてほど望まなくなっている)ことに対して、いつものようにさっぱりと落ち着けないことで、それはこの要因が自分のした最低な言動であるせいで自分勝手さを受け入れにくいからなのかなと思う。それか、ただ思い出に執着があるだけかな。

 

「戦争は悪いことで、二度と繰り返してはならない」だけが先行する特別講義を小学低学年から何度か受けてきたけど、初めてそれに参加させられたときから憤りだった。あの所感は今もそのまま残っているし多分私にとって大事にしといたほうがいい感覚なんだと思う。同じ顔をして聞いていた児童たちは私よりはるかに講義に対して怠惰だったけど、講演を用意する社会の思惑通りに育っていっただろうし、考える余地をまんまと奪われていったんだろうな。怠惰だったから、か。違いはどこから、とも思うし、私だって社会に生かされてることを認めないと、とも思う。同じ仮面つけて~って歌ってるあいつも、同じ仮面。気付こうともせずそんなぬるさに集っていればきっとうまく生きられるんでしょう。

 

14で初めて死にたいと思い、楽しく生きるために選んだ高校ではそんなことを思わなかったけど、18以降はまた死にたいと思いながら生きてた。でも高校のときは死にたくなくなったわけではなくて死にたいことを思い出す余裕がなかっただけだったんだと思う。ここでいう死にたいはネガティブな意味ではなくて死に希望を持っているという意味で、冷静に思い返せば14のときにいつ死んだって良いと思えるようになってから、どんなに今が幸せでもずっと死にたかったと思う。

 

期待されるように生きて屈服して同化できたらどんなに楽だろうと思うし、みんな自然にそういうことやってるんだろうけど、やってるというか環境にやらされてるんだろうけど、それを否定したい訳ではないしそうなれない人間はさてどうやって逃避しようか。だから欲に従えと言うのなら私は私の欲を知らないといけないけど、そんな破壊に向かうようなことを自発的にしようとするには私には生への執着が足りないなあ。しばらくは自分の欲望なんてよくわからないままでふらふらしていていいと思う。いつか見て見ぬふりができなくなったときちゃんと死を選べればいいや。

 

小学生で仕組みを感じ、中学生で擬態を学び、高校生で擬態のバカバカしさを知り、浪人からはあえて浮くような言動を選ぶこともしつつ、大学ではバカになれるバカさ加減に可笑しさを覚え、最近やっと繋がりつつ引きこもって生きていける気がしてきた。

 

くみちゃんにそそのかされて公開するつもりなかったブログを投稿してみた。堪え難い。。

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